実力派・お勧め・クラシック女流ヴァイオリニスト

 Julia Fischer

 

 ユリア・フィッシャーのヴァイオリンを、マイク オン(近づけて)で録音していないので、ユリア・フィッシャーのヴァイオリンだけを、タイミング前に補正することは出来ないとみるのが普通だが、色々と混ざった音の中から、一つだけ取り出して、補正が出来ると聞いたことがある。デジタル音声データーの編集補正は、今は何でも出来るらしい。なぜこんなことを書くかと言うと、「編集補正をしているのでは」と疑う位に、ユリア・フィッシャーのヴァイオリンのピッチ、タイミングが完璧なのだ。しかし、ユリア・フィッシャーのヴァイオリンのタイミングは、この映像を見る限り、補正していない可能性が高い。彼女のヴァイオリンの指の動き、左手のフィンガリングの動きが、オーケストラの音や、そのメンバーのフィンガリングの動きに対し、キリッとシャープに、一瞬早く動いているのが確認できる。

 ダンス(洋舞)も同じで、振りの型は大事だが、差がつくのは動き出すタイミングと動きを止めるタイミングで、それによって大きく見え方が変わる。動き出しのタイミングが遅れれば、ゆったり ゆるく感じるし、そのタイミングが早ければ、キリッとシャープに見える。良いダンサーは、動き出しがかなり早い。洋楽のタイミングと同じだ。ちなみに、日本の舞踊は一般的に動き出すタイミングがかなり遅いが、(阿波踊り)はそうではない。ダンス(洋舞)は、動き出すタイミングが、早いのが普通だ。

 ダンスは音楽のリズムをバックに踊るものが多い。それには、まず、音楽のリズムを点に置き換える必要がある。その点の位置が、的確でなければ、ダンサーとしての素質が無いということだ。つまり音楽に対し、演奏家と同じレベルでリズムがわからなければいけない。次に、振りの動きを点に置き換える。リズムの点と動きの点を一致させる、または、微妙にずらすことで、表現するのがダンスにおけるリズムである。日本人のダンザーで音楽のリズムを点に置き換えることが出来る人は少ない。もちろんプロの話である。キレの無いダンスはほとんどがそれだ。演奏家でも出来ない人が多いのだから無理もない。

ピッチについての補正は簡単である。ユリア・フィッシャーのこの動画がピッチ補正をしているかどうかはわからないが、補正は無しとして話を進める。

ピッチ、タイミングともに素晴らしいものである。気になるような所は全く無く、完璧な演奏と言える。発音のタイミングは、かなり前に弾いている。このタイミングで弾けるヴァイオリニストが日本に何人いるのだろう。五嶋龍でさえもユリア・フィッシャーのヴァイオリンに比べたら少し後ろに聞こえる。ユリア・フィッシャーのヴァイオリンの音には、イメージとして白または無色に近い透明感のある「何か」が深く乗っている。アンネ・ゾフィー・ムターのものとは違うものだ。

HKT 森保 まどかのピアノ演奏(異邦人)について・・・

 

OFF CLASSIQUE – L. Batiashvili et H. Grimaud Piano et violon réunis

言葉など要らず、ただ感動、そして感動の音空間である。ピッチ、タイミングともに素晴らしい。補正は無しとしての話である。そして、 ユリア・フィッシャーと同じ白に近い透明感のある「何か」が深く音に乗っているのがわかる。両者とも同様にかなり深い。タイミングは曲想により、少しタメて弾いているが、理想的なところに音を置いている。タイミングの遅れる奏者だと、このタメに遅れが加わって、タメ過ぎてしまい不自然に聞こえるのだ。ピッチについては、リサ・バティアシバリのこの演奏を聞いてしまうと、ユリア・フィッシャーのピッチがわずかだが甘く感じられる。リサ・バティアシバリは、ほぼ完璧なピッチを持っている恐るべきヴァイオリン奏者だと言える。リサ・バティアシンバリのヴァイオリンの音には、聞けばわかるように、どの曲にも深く「何か」が乗っている。色で例えれば白・無色をイメージさせるものだ。これは、ユリア・フィッシャーのヴァイオリンの音が持っている「何か」と同じものである。サラ・チャーンやアンネ・ゾフィ・ムターのものとは違う。サラ・チャーンやアンネ・ゾフィ・ムタのヴァイオリンの音に乗っている「何か」は、もっと華やかで派手な色彩感を持っている。これは乗せる方法が違うからである。どっちのほうがよいとか、どっちが上とかは無いと考えている。どっちのやりかたにしろ「何か」が深く乗るのか浅くしか乗らないのかが重要で、深い方がよいと言える。しかし、宗教上(キリスト教)の理由から、クラシックにおいては、無色または白のイメージ(神の色)、つまり人間臭さを排除する方向を支持する人が多いようである。

ピアノがまた素晴らしい。

このVocalise de Rachmaninov の伴奏ピアノ(エレーヌ・グリモー)は、発音・消音のタイミング、ピッチ(当然良い)、強弱、音に「何か」を乗せる、のすべての点で、並みのヨーロッパのオーケストラを上回っている。このピアノの音に乗っている「何か」は、透明感があり、白に近いものだ。この「何か」は、悲しいとか、嬉しいとか、恋しいとか、のfeelling(感情)ではない。感情は音に乗らない。科学的な話ではない。音楽は、サイエンスではあるが日本語でいう科学ではない。

Vocalise de Rachmaninov の演奏に比べて、SIBELIUS Violin Concerto のリサ・バティアシバリのピッチがわずかに甘く感じる。Vocalise de Rachmaninov のリサ・バティアシバリの演奏は、ピッチ補正している可能性がある。しかし、ピッチ補正していないであろう SIBELIUS Violin Concerto の演奏でもピッチコントロールは抜群である。

 

Sarah Chang

 色彩感のある人間を感じさせる「何か」が深く乗っている。一般的に言えば、ピッチもタイミングも素晴らしいものである。しかし、ユリア・フィッシャーに比べてしまうと、ピッチは少し甘い。

 

 

アンネ・ゾフィ・ムター

少しムラがあるが、かなり深く、音に「何か」が乗っている。ユリア・フィッシャーとは違って、かなり色彩感のある「何か」で、サラ・チャーンのものと同じである。聞けばわかるようにユリア・フィッシャーと比べて、ピッチが少し甘くタイミングも少し遅れている。